本稿は、キヤノン株式会社の知的財産戦略に関する学術論文および専門記事を対象とした文献レビューである。2000年から2025年にかけて発表された7件の文献を分析し、同社の知財戦略がどのように評価・分析されてきたかを整理した。レビューの結果、キヤノンの知財戦略は「事業支援志向」「R&D部門との共進化」「オープン&クローズ戦略の実践」という3つの特徴において一貫して高く評価されていることが明らかになった。一方、訴訟戦略における対象別の使い分けやNPE(非実施主体)対策については、より分析的・批判的な視点からの考察も存在する。本レビューは、キヤノンの知財戦略に対する外部評価の傾向を俯瞰し、今後の研究および実務への示唆を提供するものである。
キーワード: 知的財産戦略、特許戦略、オープン&クローズ戦略、クロスライセンス、R&D連携
1. はじめに
1.1 背景
キヤノン株式会社は、米国特許取得件数において41年連続で世界トップ10入りを果たし、日本企業としては20年連続で首位を維持している(IFI CLAIMS Patent Services, 2025)。同社は日本企業の知的財産戦略における代表的成功事例として、学術研究および実務の両面で頻繁に取り上げられてきた。
しかしながら、キヤノンの知財戦略に関する文献は、学術論文、業界誌、コンサルティング企業のレポートなど多岐にわたり、その評価や分析視点は必ずしも統一されていない。同社の知財戦略がどのような観点から評価され、いかなる特徴が指摘されてきたかを体系的に整理した文献レビューは、管見の限り存在しない。
1.2 目的
本稿の目的は、キヤノンの知的財産戦略を対象とした既存文献をレビューし、以下の問いに答えることである。
- キヤノンの知財戦略は外部からどのように評価されているか
- 文献間で共通して指摘される特徴は何か
- 批判的・分析的視点からはいかなる課題が指摘されているか
1.3 方法
本レビューでは、キヤノンの知財戦略を主題または主要事例として扱った文献を対象とした。対象文献の選定にあたっては、学術データベース(CiNii、J-STAGE)、業界専門誌(IAM、IPマネジメントレビュー)、および知財専門コンサルティング企業の公開レポートを調査した。最終的に、2000年から2025年にかけて発表された7件の文献を分析対象として選定した。
2. 文献レビュー
2.1 特許戦略と製品戦略の共進化
佐々木ほか(2000)は、キヤノンを事例として特許戦略と製品戦略の関係性を分析した。同論文によれば、キヤノンの特許部門は研究開発の初期段階から参画し、R&D部隊に密着して特許情報の提供、発明の掘り起こし、研究テーマの提案を行っている。
同論文は、1972年の特許部昇格以降、出願増加に応じて特許部門が拡充され、事業横断的なR&D支援を可能にする組織機能へと進化したことを指摘している。結論として、キヤノンにおいては「特許戦略と製品戦略が技術選択を通じて共進化している」と述べられている(佐々木ほか, 2000, p.3)。
本論文の意義は、知財戦略を製品戦略から独立した機能としてではなく、相互に影響し合う動的なプロセスとして捉えた点にある。この「共進化」という視点は、後続の研究においても参照される重要な概念となっている。
2.2 知財部門と開発部門の戦略的協働
赤間(2015)は、キヤノンにおける知的財産部門と開発部門の協働関係を詳細に分析した。同論文では、キヤノンの知財活動が「事業の発展を支える」ことに重きを置く戦略であることが強調されている。
特筆すべきは、同論文が「ライセンス料をとるための権利化は邪道」というキヤノン内部の認識を紹介している点である。赤間(2015)によれば、キヤノンはライセンス収入獲得を主目的とせず、独占的な事業展開を支えるために強力な特許網を構築する方針を採っている。
また、クロスライセンス交渉においては、自社事業に不可欠な特許を決して相手に渡さず、差額分のみを金銭換算する手法が採用されていることが報告されている。核心技術は特許化せずに秘匿することで競争力を維持する「クローズ戦略」の存在も指摘されている(赤間, 2015)。
本論文は、キヤノンの知財戦略における「守り」の側面を詳細に記述した点で重要である。特に、ライセンス収入と事業防衛という二つの目的の優先順位を明確にした点は、他社の知財戦略検討においても参照価値が高い。
2.3 米国訴訟戦略における対象別アプローチ
Schindler(2018)は、IAM誌においてキヤノンの米国特許訴訟戦略を分析した。同記事は、キヤノンとHitachiの訴訟戦略を比較し、両社の知財エンフォースメント(権利行使)における差異を論じている。
Schindlerによれば、キヤノンは大手企業を相手とした訴訟を回避する傾向がある一方、プリンタ用トナー互換品を製造する小規模企業群に対しては極めて攻撃的に特許を行使している。具体的には、米国ITC(国際貿易委員会)に対して48社を一斉に提訴した事例が紹介されている。
同記事は、キヤノンが「大企業には手袋をはめたまま、小規模プレイヤーには手袋を外す(takes the gloves off)」形で対応していると表現し、この使い分けが意図的かつ戦略的であると分析している(Schindler, 2018)。
本記事の意義は、キヤノンの訴訟戦略における「二面性」を明示的に指摘した点にある。この分析は、知財エンフォースメントが相手の規模や交渉力に応じて異なる形態をとりうることを示唆しており、知財戦略研究における重要な視点を提供している。
2.4 訴訟動向の定量的分析
GreyB(n.d.)は、グローバルIP調査会社の立場からキヤノンの特許訴訟動向を定量的に分析している。同レポートによれば、過去6年間にキヤノンが被告となった特許訴訟の約96%が和解または取下げにより解決しており、長期裁判を回避する傾向が顕著である。
また、直近期(2020〜2024年)においてキヤノンに対して提起された訴訟の約95%がNPE(Non-Practicing Entity:非実施主体)によるものであることが報告されている。この結果は、キヤノンにとってNPE対策が現代における重要な知財課題であることを示唆している。
さらに、同レポートは半導体・メモリ関連の技術分野における訴訟が増加傾向にあることを指摘しており、事業ポートフォリオの変化に伴う訴訟リスクの変容を示している(GreyB, n.d.)。
本レポートの意義は、キヤノンの訴訟動向を定量的データに基づいて分析した点にある。特に、被告としての和解志向やNPE訴訟の高比率といった知見は、同社の知財リスクマネジメントを理解する上で重要である。
2.5 オープン&クローズ戦略の体系的整理
TechnoProducer(2025)は、キヤノンの知財資産とオープン&クローズ戦略を体系的に整理している。同記事によれば、キヤノンは全世界で8万件超の特許を保有し、2024年の米国特許登録件数では世界第9位(日本企業首位)に位置している。
同記事は、キヤノンの知財戦略を以下の3つの方針に整理している。第一に、競争領域においてはコアコンピタンス技術の特許をライセンス供与せず独占する。第二に、協調領域においては通信・GUI等の汎用技術特許をクロスライセンスに活用する。第三に、秘匿領域においては容易に模倣できない製造技術等を特許化せずノウハウとして保持する(TechnoProducer, 2025)。
また、同記事は「攻め」と「守り」の両面展開として、コア技術への積極的な権利化(攻め)と、累計約200件の訴訟による模倣品排除(守り)を挙げている。
本記事の意義は、キヤノンのオープン&クローズ戦略を明確な類型として整理した点にある。競争領域・協調領域・秘匿領域という3分類は、他社の知財戦略策定においても参照可能なフレームワークを提供している。
2.6 発明発掘活動の組織的仕組み
萬(2023)は、キヤノンにおける発明発掘活動を「企業における典型例」として紹介している。同記事によれば、キヤノンはPGA(Patent Generation Activity)と呼ばれる仕組みを構築しており、研究開発部門から日々生まれるアイデアを知財部門が主体的に収集・評価している。また、萬は、キヤノンの知財部門が単なる「出願代行」ではなく、アイデア段階から能動的に関与し、発明者や代理人と協力しながら効率的に出願を行う体制を構築していることを指摘している。
2.7 知財戦略の代表的事例としての位置づけ
Toreru Media(2022)は、知財戦略の入門的解説においてキヤノンを「日本のトップランナー」として紹介している。同記事は、キヤノン公式サイトを引用しながら、「知的財産活動はライセンス収入獲得が主目的ではなく、事業発展を支えるためのもの」という同社の基本方針を解説している。
本記事は学術的分析を目的としたものではないが、キヤノンの知財戦略が実務家向けの啓蒙的文脈においても代表的事例として位置づけられていることを示している点で、本レビューの対象に含めた。
3. 考察
3.1 文献間で共通する評価
本レビューで分析した7件の文献を通じて、キヤノンの知財戦略に対する評価には以下の共通点が認められた。
第一に、「事業支援志向」の一貫性である。 赤間(2015)、TechnoProducer(2025)、Toreru Media(2022)のいずれにおいても、キヤノンがライセンス収入獲得よりも事業防衛・競争力維持を知財活動の主目的としていることが指摘されている。この方針の一貫性は、同社の知財戦略における中核的特徴として広く認識されている。
第二に、「R&D部門との連携」の重要性である。 佐々木ほか(2000)および萬(2023)は、知財部門が研究開発の初期段階から参画し、発明創出を能動的に支援する体制を構築していることを報告している。この組織的連携は、「共進化」(佐々木ほか, 2000)や「戦略的協働」(赤間, 2015)といった概念で表現されており、キヤノンの知財戦略の組織的基盤として評価されている。
第三に、「オープン&クローズ戦略」の実践である。 赤間(2015)およびTechnoProducer(2025)は、キヤノンが技術の性質に応じて権利化・クロスライセンス・秘匿を使い分けていることを指摘している。この戦略的使い分けは、小川(2015)が提唱したオープン&クローズ戦略の実践例として位置づけられる。
3.2 批判的・分析的視点
一方、一部の文献では批判的・分析的視点からの考察も行われている。
訴訟戦略の二面性について、 Schindler(2018)は、キヤノンが大企業と小規模企業に対して異なるアプローチを採用していることを指摘している。この「二面性」は、戦略的合理性の観点からは肯定的に評価されうる一方、小規模競合に対する攻撃的姿勢については批判的な見方も存在しうる。
NPE対策の重要性について、 GreyB(n.d.)は、キヤノンに対する訴訟の大半がNPEによるものであることを報告している。この結果は、同社の知財戦略が「攻め」だけでなく「防御」においても課題を抱えていることを示唆している。
3.3 本レビューの限界
本レビューにはいくつかの限界がある。第一に、対象文献が7件と限定的であり、網羅性に課題がある。第二に、対象文献の性質が学術論文、業界誌、企業レポートと多様であり、分析の深度や信頼性に差異がある。第三に、キヤノン自身による公式発表や社内資料にはアクセスしておらず、外部文献のみに基づく分析となっている。
4. 結論
本稿では、キヤノン株式会社の知的財産戦略に関する7件の文献をレビューし、同社の知財戦略に対する外部評価の傾向を整理した。
レビューの結果、キヤノンの知財戦略は「事業支援志向」「R&D部門との共進化」「オープン&クローズ戦略の実践」という3点において一貫して高く評価されていることが明らかになった。これらの特徴は、数十年にわたる組織的蓄積によって形成されたものであり、同社の競争優位の源泉として認識されている。
一方、訴訟戦略における対象別アプローチやNPE対策については、より分析的・批判的な視点からの考察も存在する。これらの論点は、キヤノンの知財戦略を単純な「成功事例」としてではなく、複雑な競争環境への適応プロセスとして理解する必要性を示唆している。
今後の研究においては、キヤノンの知財戦略が事業ポートフォリオの転換期においてどのように変容するか、また新興技術領域(AI、IoT等)における知財構築がいかに進展するかを追跡的に分析することが求められる。
参考文献
- GreyB (n.d.). Inside Canon’s Patent Strategy: Filings, Litigation Trends, and Licensing Power. Retrieved from https://www.greyb.com/blog/canon-patent-strategy/
- 小川紘一 (2015).『オープン&クローズ戦略:日本企業再興の条件 増補改訂版』翔泳社.
- 赤間愛理 (2015).「知的財産部門と開発部門の戦略的協働 ─キヤノンの事例から─」『IPマネジメントレビュー』第17号. Retrieved from https://ip-edu.org/library/pdf/ipmr/ipmr17toukou01.pdf
- 佐々木達也・児玉文雄・玄場公規 (2000).「特許戦略と製品戦略の共進化モデル」JAIST研究報告. Retrieved from http://www.jaist.ac.jp/coe/library/jssprm_p/2000/pdf/2000-1A08.pdf
- Schindler, J. (2018). Canon and Hitachi US patent suits show dramatically different IP enforcement strategies at work. IAM. Retrieved from https://www.lexology.com/library/detail.aspx?g=cd47ce06-0561-4dc2-84e6-d3edbbb4940a
- TechnoProducer (2025).「キヤノンの知財戦略:事業を支える知財活動の全貌と今後の展望」Retrieved from https://www.techno-producer.com/ai-report/canon_ip_strategy_report/
- Toreru Media (2022).「どこから着手?はじめての知財戦略 ~知財「で」できることをスタートに!」Retrieved from https://toreru.jp/media/trademark/4811/
- 萬秀憲 (2023).「企業における発明発掘活動の典型例(キヤノン)」よろず知財コンサルティング. Retrieved from https://yorozuipsc.com/blog/4073921

株式会社LeXi/Vent 代表取締役
化学メーカーでマテリアルズ・インフォマティクスなど機械学習の研究開発に従事後、知的財産部で特許情報分析(IPランドスケープ)を従事。その後現職では、IPランドスケープ専任で知的財産戦略、テクノロジーインテリジェンス、知財人材教育に関する業務を行なっている。同時に副業で個人事業「LeXi/Vent」を設立し、士業・コンサルタントのブランディング支援を行いながら、「知財若手の会」コミュニティを運営。

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